琴浦町(歴史)概要: 琴浦町は古代、伯耆国に属し文化的には出雲文化圏に含まれていました。奈良時代には斎尾廃寺跡や大高野遺跡など高度な文化が存在し中央とも強い繋がりがあったと思われ、特に斎尾廃寺跡は法隆寺式伽藍配置で東西160m、南北250mの大規模寺院跡として国指定特別史跡に指定されています。南北朝時代には後醍醐天皇が隠岐の島から脱出し名和長年と共に船上山に立て籠って幕府軍に勝利し建武の新政の足がかりとなっています。
室町時代に入ると行松氏が支配し、伯耆国守護職山名氏から養子を迎えるなど勢力を拡大、南条氏と対立します。永正年間(1504〜1520年)、尼子氏の伯耆国侵攻により行松氏は毛利氏を頼り当地域から退去しますが、永禄年間(1558〜1571年)尼子氏の没落により復権します。しかし、行松氏は当地方を任された毛利家家臣杉原氏と対立した事で毛利氏と対立関係のあった南条氏と関係を深めます。
天正年間に南条氏が支配したようですが慶長5年(1600)、西軍に付いた事で領地を追われ、替わって中村一栄(米子藩主の伯父)が3万石で八橋城城主となります。慶長14年(1609)、中村家が改易になると市橋長勝が2万3石で入封し矢橋藩を立藩、しかし、長勝は大坂の陣の功で越後三条藩(現在の新潟県三条市)に加増移封され元和3年(1617)には鳥取藩に組み込まれます。寛永9年(1632)、池田光仲が鳥取藩主になると家臣である津田氏が配され、自分手政治と呼ばれる半独立的な領地となり八橋陣屋を構えました。
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